原発事故から一年がたったね。
これだけは書いておかないと、何となく先にすすめない(笑) 俺なんか福島県の本宮市。震度6弱だったかな。今でも家の土台はひび割れたまま。壁も何カ所もひび割れたままだ。 被害は大きかったけど、ここら辺は津波は来ない。 いろいろ大変だったけど、命の大切さ、生きていることのすばらしさに気がつくことができた。 少々不便な生活にも不満はなかった。 みんな助けあったし。 向かいのレストランがカレーライスの炊き出しをわざわざ持ってきてくれたり、友達が俺のために天ぷら持ってきてくれたり。 携帯はなかなか繋がらなかったけど、仲間の情報網は速かった。大学の友人、福島の仲間、みんな無事だった。 何日かして、俺が二年前まで働いていた会社の同僚が仕事中に津波にさらわれて亡くなったことを知らされた。 原発が爆発した。 みんな何が起こってるのかわからなかったし、危険を感じる余裕もなかった。 まだ雪が降る寒い季節。停電で暖房もつかない、電気も水もない家の中で何ができる? みんな給水車の前に何時間も並んだり、食料を求めて何時間も行列したり。 後になって危険な放射線量が降り注いでいたことを知らされた。 電気がついて、徐々に情報が入りはじめる。 アメリカは80キロ圏内を避難させた。 トモダチ作戦とやらで普天間基地から飛び立った部隊も福島には来なかった。 原発は日々深刻さを増して、半径30キロまでが危険地域になった。 その外側は「直ちに健康に害はない」と言われた。 だが、毎日外で仕事をする俺達には、これが続けば危険としか考えられない数値だった。 福島市で1時間に24マイクロシーベルトという数値の中で俺達は放置された。 ガソリンは生命線だった。 俺達のガソリンスタンドには毎日何十台もの警察、消防、国道交通省、通信会社、電気、ガスの会社が給油に来た。 電力会社は全身防護服に身を包んだり、車両を外気から遮断するために目張りがされていたりした。 彼らの燃料をつなぐことは命をつなぐこと。 ガソリンスタンドの仕事も救援の後方支援だ。 毎日、高い放射線の中での外仕事もこれで助かる命があると思えばやめるわけにはいかなかった。 それでもガソリン不足は深刻だった。 救援の消防や救急車に入れるガソリンもなくなった。 もはや、ここら辺りから逃げたくても逃げるガソリンもなかった。 もちろん電車は動いていなかったし、バスも少ししか走っていない。 逃げたい人も逃げようがなかった。 正直、言語に絶する恐怖だった。 次に深刻な爆発が起きれば福島にはいられない。 しばらく落ち着かない日々が続いた。 何で逃げないんだ? と、多くの人が疑問に思うようだ。 だけど、それ程簡単な問題じゃない。 仕事、生活、家族、仲間。 逃げるには失うものも多すぎる。 震災後の5月、沖縄返還の日のイベントで那覇市民会館で話をさせてもらう機会があった。 沖縄の問題と福島の問題はつながっている。 基地は戦争の道具の「平和のための抑止力」。原発も戦争の道具の「平和利用」。 住民にとっては危険なもの。 危険だから逃げろ。 それでは解決にはならない。 出ていくべきものは基地であり原発だ。 沖縄の人なら理解しやすいと思うけど、普天間基地が危険だから、近くの人は内地に移転してもらいます。とかなったらどう思う? 地元最高は福島も同じ。単純に逃げろ言われても簡単な問題じゃない。 俺は福島でたたかうことを決意した。 そんな話をした。逃げないなら、逃げられないなら、この現実を固定化しない。こんな思いを絶対に他ではしてもらいたくないから、そのためにはこの現実とたたかっていく。 ↑ここまで書いて放置してた(笑) どうしてもこの時期は心安らかではないからね。 3月11日は郡山で、原発いらない 県民集会に運営として参加させてもらった。 1万6000人が集まった。2時46分には黙祷。 同じ思いの人がたくさんいると思うと、高揚感があった。 その後、集会に参加して意気投合した人達とカラオケ(笑) HipHop歌っても浮かないメンツだったから久しぶりにはじけたな(笑) 普段は前川清とか歌ってるからよ 最近、東電から賠償金払うって紙が送られてきたり、福島は現在進行形で問題抱えてるけど、 悲壮感とかじゃなくて、楽しみながら福島の思いを伝えていけたらいいなって思います PR
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